結局自分が偉いと言ってもらいたい学者とそうでない人たち

 私は司馬遼太郎塩野七生も好きである。日本史やローマ史において、そんなスゴイ人がいのかと素直に感心するし感動もする。教科書を読んでいても全く歴史など無意味だと私は思ってしまうのだが、彼らのような作家のおかげで過去の人の苦労や工夫を知ることが出来る。なんにせよ、歴史の価値を知ることが出来る。ところが、両者はたいてい「プロ」と呼ばれる人からはマイナスの評価になる。「日露戦争坂上の雲をもって語る人がいる」だとか「突っ込みどころ満載のローマ史にはあきれられる」とかの評価のようである。例えば、
ローマ人の物語」を歴史の専門家はどう評価しているのか?
という内容でgoogleを検索するば、そういうブログが引っかかる。

 要するに学者と呼ばれる人たちの発言である。彼らの主張は「小説」は事実を軽視する、「小説」は学問ではない、のようである。なるほど、彼らの判断基準からすればそうなのかもしれない。司馬遼太郎塩野七生を読む人は私のような素人が多いだろう。学者さんの主張に耳を貸すと要するに、1)一般人はバカである、2)オレらはもっとすごい、ということが言いたいのだろうと私には判断できてしまう。なんてことはない、なんでオレのことに興味を持たないのかという叫びなのだ。

 では、なぜ一般人は専門家の書いたものに興味がないのだろうか。自明である。学者の書く文章はつまらないからだ。専門誌って、犬も食わぬ文章で埋まっている。そウ判断するのは私が素人だから。専門家の人には、そういう文章が宝物なのだ。では、彼らが一般の向けの人にどんなものを書くのか。それが知りたいならば子供向きの入門書を読んでみるとよい。よく出版したなぁというレベルのものが多い。専門家がどんなにスゴイ研究をしていても、一般の人に受け入れられるための「チャンネル」を彼らは持っていない。単位が必要ない人にとっての価値はほぼない。

 専門家の人の歴史は専門家で議論してくれればよい。一般人だって、歴史は知りたいのだけどつまらないなら要らない。だからこそ、専門家以外の人が勉強して一般向けの歴史を語ってくれるのがありがたいのだ。それが良くできた歴史小説になり、歴史解説となれば人気がでる。その場合、日本史ならば日本の研究者が、外国史ならば外国の研究者が行ったものの成果を中心とするものになる。その道のオーソリティーの評価によって「良い」と判断されたものや、歴史に耐えたものが資料となる。ローマ史だからといって、日本のローマ史研究者のお世話になる必要はない。その人がその分野で良い結果をだせば、自然とそれが資料になるだろうが。ただし、日本人がローマ史を知りたいときに日本人のローマ史の専門家にお世話になる人はないのだ。その人が普通の人に語れる言葉をもっていれば別だけど、大抵は「オレは偉い」ということを表現する人だろうから、お呼びでないのだ。

 研究者はその興味にしたがって研究すればよい。大学にそういう学科があるのだから、そこでがんばればいい。そんな人が請われもしないのに、いちいち一般の人に評価が高い人についてうんぬんして、「だから、オレらを尊敬しろ」という必要はない。むしろ、専門家の中で楽しくやっていればいい。大学にいれば、最近の大学の内容の「悲惨な状況」を良く知っている。教師も生徒もかなり危うい。マスコミによる幻想によって、どこまで守られているか分からないが、そんなものがいちいち社会に出しゃばる必要はない。

 もちろん、学者のなかでも一般の人に語る「言葉」をもっている人はたくさんいる。そういう人は、「オレは偉い」を要求しないので、必然的に一般の評価は高くなる。ならば、結果的に、一般の人は困っていない。困っているのは、専門家なんだろう。それを一般の人にせいにしているのを見るにつけ、阿呆臭い気分になりますますアレルギーをもってしまう。

 ちょっとボヤキすぎかもしれない。