このあたりで一段落かな

 1年ほどハテナを使ってみた。使い込んだというほと使っていないけれど、これ以上会費を支払うほどのものはないなという気がしたので無料会員にもどった。色々便利な機能があり、はじめのころは喜んで使っていた。しかし、毎日使うとなるとどうしても「必然さ」がいる。物珍しさで魅かれたのだから、当たり前になれば離れるというものだ。地図にトラックバックするなどと面白いなぁとおもったのだが、必然さはあまりないから飽きちゃうといわけだ。

 プラットフォームにしている人はたくさんいるだろう。テンプレートというかスキンというか、そういうものも充実している。それでも、なぜ「はてな」が有名になったのかはよくわからない。人力検索という発想がベースにあったのだろうけど、使わないままだった。普通の生活をしている私が探すことは、その前にだれかが探していることが多いので、ネットで検索すればヒントが見つかってしまうということもある。要するに、どうしても欲しいというものではないのだ。

 ハテナカウンターは便利だった。これだけでも継続しようかと思っていた。が、しかし、アクセス統計をみて反省するというのは、何のためにネットにページを出しているのかわからなくなってしまう気もする。数字が煽る、という面に嫌気がさしたということもある。普通の人はバカみたいにアクセス数をとれるページを作ることは難しいだろう。そんなこともよく分かった。

 とうことで、また気が向いたら書いてみるかね。それまでは、ハテナはいいや。

都市の人の生活、精神的には捕らわれの身

 夏休みが7月から9月までの間に7日もらえる。各人の都合に合わせて設定すればよいことになっている。みんなが一斉に休暇をとるお盆の時期にとってもよいし、別の日にとってもよい。夏休みをとらないのでもよい。あれこれ言われるが、すべては自分で決めれば良い。そういうルールなのだ。毎年そうなのだが、夏に長期休暇を取ることはしない。何処へ行っても込んでいるし、高いし、何より暑いから。かといって、お休みを貰えるのは実に有り難いので必ずもらう。金曜日とか月曜日とかにぽつぽつ入れて、8月は週休3日になったりする。あるいは、なんでもないウィークデイにとって、町中を歩いたりする。

 社会人とうかサラリーマンというか、そういう都市生活になれとある強迫症にとりつかれていることに気付く。平日に休暇をとるとなんだか「申し訳ない」という気がして仕方ないのだ。あるいは、精神的に犯罪を犯しているような後ろめたさがある。まったく、合法的にしかもだれにも迷惑をかけてない行為なのに、他人が働いていると置いて行かれるような気がする。頭では「まったく勘違いな恐怖」だと理解しているのだが、晴れ晴れした気持ちにならない。休暇に対してかなり自由度がある仕事についた私でもこんな気分になるのだから、休暇など全くとれない会社に勤めている人ならば、休暇を取ることに対する恐怖はなみなみならないものだろう。あるいは、むしろ、普通の人に休みを取れるのが至上な幸福なのかもしれないが。

 休暇をもらっているときに感じる後ろめたさ。社会の人が働いているときに感じる申し訳なさ。そんな気分になると思う。自分はいつから「奴隷」になったのだろうか。精神的には奴隷の気分なのだが、それはなぜ感じるのだろうか。


 こんな内容の日記を去年も書いた。あれから1年近く経っているが、精神的には何も変わらなかったのだ。がっくりくる。あるいは、この生活について覚悟ができていないということだ。信じがたいくらい幸せな環境にいさせてもらっているのに、何かしっくりこない。そんな状況はだれでも同じなんだろうか。未来についてはどんな人も「ぼんやりとした不安」をもつものだと思うが、平日に有給で休んだときに感じる後ろめたさも同じなのだろうか。

シアトルのラジオ局から小野リサが流れる

 インターネットのラジオ局で24時間ボサノバをかけているところがある。ちょっと古いPowerBookG4iTunesでストリーミングを受信して、ヘッドホン出力をステレオアンプに繋いでいる。意外にセンスのよい選曲で、アンビエントとして部屋を満たす音楽としては十分満足できる。音質も無料であることを考えれば十分だ。(http://www.live365.com/stations/bossaantiqua

 何とはなしに小野リサが流れてきた。ちょっと気だるい歌声がシアトルにある放送局の選曲者の目に留まるのか。あまり音楽通ではないので、日本のボサノバシンガーがどの程度の知名度があるのかよくわからないが、ちょっとうれしい気分。昼間も夜も空気を満たすBossa Novaは幸せを感じさせる小道具としては最高のものだと思う。

魔法への抵抗感が摩耗する

 最近に始まったことではないが、TVなどで「スピリチュアル」というものを良く見かける。心霊現象とは違うのかもしれないが、前世がどうだったから現世がこうなんだと解説している。そういうものが、さも当たり前に受け入れられている。もっとも、それは人によって異なるのだろうけど。どうしてなのか分からないけど、そういう原理で人の世の中が動いていると理解している人が少なくないといえる。流行っているからこそ、新聞すら読まない私でも知っているのだろう。

 どうしてなんだろうか。義務教育が必ずしも効果的だとは言えない時代であっても、心霊現象が当たり前だという教育はしていないはずだ。地球が丸いということを知らない人が何パーセントいるというアンケートを時たま見かけるが、それは教えたけど忘れているだけだ。スピリチュアルが世の中の力だということを教えている学校はないだろう。老人が老い先短いからという理由で仏教に魅かれるというような理由で前世物語が流行るわけではない。それは、若い人が当然のごとく考えているのだ。なぜだろうか。

 そんなことを電車の中で考えていた。前の席には女子高生もおばさんもオジサンも若者も、眉間にしわを寄せて携帯電話をのぞき込んでいる。これがないと生きていけないと主張する人もいる。WWWを外で使う必要はないし、メールするなら電話すりゃいいじゃないか。そもそも、そんなに通信する内容があるのはすごいなぁ。オジサンのようなことを考える。

 携帯電話の技術は携帯機器のハードとソフト、アンテナ、基地局そしてそれを束ねるネットワークや課金などを含めた地上系はスゴイ技術の塊になっていることを最近読んだ本で知った。ダイやチップ製造の技術、スペクトラム拡散や符号化、電話を待ち受けながら音楽を聴いて、写真を撮ることができるソフトだけでなく、周波数のセル化、各端末の現在位置追跡のための技術、ホームメモリからバックボーンの通信回線まで気が遠くなる蓄積である。おそらく、目の前で啓太に夢中になっている人たちは理解できないだろう。バカにするわけではないが、全くその方面について勉強していないであろうコギャルはなぜ携帯がつながるのかなどとは考えたことがないだろう。と思ったときに、理解できた。なぜ、スピリチュアルが流行るのか。

 現在の技術のうち、複雑なものは理解できている人はほとんどいないのだ。しかし、それがなくては生きていけない人がたくさんいる。つまり、なぜ動くのかは知らないけど生活にとって必要なもので、かつ、それが自分の人生をガイドしてくれるものなのだ。それは、前世物語も携帯電話もユーザから見れば等価なのだ。彼らは、携帯電話と同じくらい現実的なものとして前世物語を使っているのか。技術革新は一人の技術が成長するうちにどんどん形態が変わるため、若い人が必ずしも引き継いでいるわけではないかもしれない。わから無いところはほっておいて、その上に自分たちの作品を重ねているだけ。そうなると、しばらくすると「なぜ動くのかは分からない」ものをベースにして、現実の技術を扱う技術者が増えることになる。そうならないように勉強するといっても、限度がある。そもそも、負け戦状況なのかもしれない。

 高度な技術は魔法と見分けがつかないそうだ。学者とちがって製品は高度になればなるほど「見えなくなる」「そう感じさせなくなる」ものである。高度であれば存在感が薄くなり、考える対象からはずされる。となると、結局、人に興味がもどる。その段階では江戸時代、鎌倉時代、もっともどって縄文時代の人が素朴に感じる「理由付け」が説明の主役になっても不思議はない。

結局自分が偉いと言ってもらいたい学者とそうでない人たち

 私は司馬遼太郎塩野七生も好きである。日本史やローマ史において、そんなスゴイ人がいのかと素直に感心するし感動もする。教科書を読んでいても全く歴史など無意味だと私は思ってしまうのだが、彼らのような作家のおかげで過去の人の苦労や工夫を知ることが出来る。なんにせよ、歴史の価値を知ることが出来る。ところが、両者はたいてい「プロ」と呼ばれる人からはマイナスの評価になる。「日露戦争坂上の雲をもって語る人がいる」だとか「突っ込みどころ満載のローマ史にはあきれられる」とかの評価のようである。例えば、
ローマ人の物語」を歴史の専門家はどう評価しているのか?
という内容でgoogleを検索するば、そういうブログが引っかかる。

 要するに学者と呼ばれる人たちの発言である。彼らの主張は「小説」は事実を軽視する、「小説」は学問ではない、のようである。なるほど、彼らの判断基準からすればそうなのかもしれない。司馬遼太郎塩野七生を読む人は私のような素人が多いだろう。学者さんの主張に耳を貸すと要するに、1)一般人はバカである、2)オレらはもっとすごい、ということが言いたいのだろうと私には判断できてしまう。なんてことはない、なんでオレのことに興味を持たないのかという叫びなのだ。

 では、なぜ一般人は専門家の書いたものに興味がないのだろうか。自明である。学者の書く文章はつまらないからだ。専門誌って、犬も食わぬ文章で埋まっている。そウ判断するのは私が素人だから。専門家の人には、そういう文章が宝物なのだ。では、彼らが一般の向けの人にどんなものを書くのか。それが知りたいならば子供向きの入門書を読んでみるとよい。よく出版したなぁというレベルのものが多い。専門家がどんなにスゴイ研究をしていても、一般の人に受け入れられるための「チャンネル」を彼らは持っていない。単位が必要ない人にとっての価値はほぼない。

 専門家の人の歴史は専門家で議論してくれればよい。一般人だって、歴史は知りたいのだけどつまらないなら要らない。だからこそ、専門家以外の人が勉強して一般向けの歴史を語ってくれるのがありがたいのだ。それが良くできた歴史小説になり、歴史解説となれば人気がでる。その場合、日本史ならば日本の研究者が、外国史ならば外国の研究者が行ったものの成果を中心とするものになる。その道のオーソリティーの評価によって「良い」と判断されたものや、歴史に耐えたものが資料となる。ローマ史だからといって、日本のローマ史研究者のお世話になる必要はない。その人がその分野で良い結果をだせば、自然とそれが資料になるだろうが。ただし、日本人がローマ史を知りたいときに日本人のローマ史の専門家にお世話になる人はないのだ。その人が普通の人に語れる言葉をもっていれば別だけど、大抵は「オレは偉い」ということを表現する人だろうから、お呼びでないのだ。

 研究者はその興味にしたがって研究すればよい。大学にそういう学科があるのだから、そこでがんばればいい。そんな人が請われもしないのに、いちいち一般の人に評価が高い人についてうんぬんして、「だから、オレらを尊敬しろ」という必要はない。むしろ、専門家の中で楽しくやっていればいい。大学にいれば、最近の大学の内容の「悲惨な状況」を良く知っている。教師も生徒もかなり危うい。マスコミによる幻想によって、どこまで守られているか分からないが、そんなものがいちいち社会に出しゃばる必要はない。

 もちろん、学者のなかでも一般の人に語る「言葉」をもっている人はたくさんいる。そういう人は、「オレは偉い」を要求しないので、必然的に一般の評価は高くなる。ならば、結果的に、一般の人は困っていない。困っているのは、専門家なんだろう。それを一般の人にせいにしているのを見るにつけ、阿呆臭い気分になりますますアレルギーをもってしまう。

 ちょっとボヤキすぎかもしれない。

丸善の日本橋店ではいつも不愉快な思いをするなぁ

 これといって恨みはないのだが、ここのところ丸善日本橋店(本店)で買い物をすると決まって嫌な思いをする。なぜなんだろうと思うのだが、原因はわからない。自分が過敏すぎるのかといえば、そうではないだろう。もちろん、クレーマーになるのも嫌だからだまっているし、たまたま運が悪かったと思えば次に来店するときにはなにもないだろうと思っていた。だけど、何度か通って決まって不愉快なおもいをするし、別のお店(例えば、丸善丸の内オアゾや丸の内ブックセンター)では嫌な目にあったことがないので、おそらく本店がおかな状況になっているのかもしれない。あるいは、全く偶然かもしれない。歴史ある書店の本店が改装される前にも休日には良く通っていた。つまり、嫌な目にはあっていない。だから、やっぱりあの店は改装とともに変わってしまったのだろう。

 ハードウエアが変わるとその中身も変わるのかもしれない。店の雰囲気のせいなのか。あるいは、高級店に特化するので本がたくさん売れる必要ないという態度なのか。べつに、お客様は神様でも何でもないし、わけわからんお客も多いだろうから、商品である本と金銭を交換する機能があればよい。欲しい本があるのならば、丸の内店やブックセンター、あるいは、アマゾンにたよる。だから、あの店に行くのは偶然の出会いを期待してのこと。もっといえば、店員さんに期待しているのは「本の陳列」だけである。対応の良さなど期待していない。普通であればよい。それが、出来ないのだから不思議な気がする。

 一番不愉快だったのは、カウンターでクレジットカード支払いをするときにカウンターに手を置いていたときだ。おつりや明細をいれるトレーをそのカウンターに置こうとした店員がそのトレーで私の手を払うのだ。私は一瞬意味が分からんかったが、とっさに手を引っ込めた。店員さんは手をどけたあとにそこに皮でできたトレーを音を立てて置いた。商品を持っていき、支払いのためにカードをだしたたけで、何も質問をしてない。もっと言えば、その店員は挨拶すらしなかった。きっと何か腹が立っていたことがあったのだろうとおもうが、スゴイ対応だった。

 次に腹がったのは、店員に押されたときだ。私は本を探していた。みつからなくて嫁さんとどこにあるのだろうと思っていた。考えていた。そこに、店員さんが向こうから声を出しながらやってきた。「すみません、すみません」と言っている。考え事をしていたので、店員さんが何をいっているのだろうかとぼやっとしていた。そこで、顔を見て「すみませんが、どいていただけますか?」といってくれれば、「あ、はい。」と応答したであろう。ところが、その店員にスミマセンと言われながら押しのけられた。私は今買った本の袋を落としそうになった。どうやらその店員さんの後ろから車いすの人がついてきたようで、その人の車いすが停止しないように道を空けていたようである。べつに、そもそもなんでそんなに急いでいるのかわからんし、車いすが通るので道を空けてくださいといえば皆さん空けたであろう。店を出て行くとき深々と頭を下げていたので、きっと偉い人だったんだろうな。もちろん、車いすの人には金輪際ちかよりたくない。これは論理のもんだいではなく感情の問題なので、自分でも制御はできない。あの店員さんの行動とともに嫌な思い出としてすり込まれた。不幸な巡り合わせである。
 じつにくだらない理由でお客とは不愉快な思いをするものだ。店からみたらバカらしいかもしれない。しかし、お客というのはそんなものだ。そして、そんなことでも離れていく。なぜなら、選択肢があるから。もっとも、こんな客が一人いなくなってもどうでもいいゴミみたいなことであることは私には分かっている。

 偉い人がたちよるおしゃれな店にしたい。なんたって、老舗なんだから。そういう路線はそれでいい。普通の人を相手にしなくてもね。80:20の法則もあるのだろうし。でも、普通の人よりこのお店にはおカネを落としていると思うよ。本代だけで年間100万円以上つかっているのだから。もっとも、7割方アマゾンだが。そんなにむかしのことではないのに、変わったなぁ、店員さんの向いている方向が。それはそれでいいけど。なんとも残念だ。気に入っていたが場所が減ったのだから。まぁ、仕方ないか。とういことで、巡回コースはオアゾ店に変更する。今後のオアゾ店の展開に期待しよう。でも、ちょっと面倒なんだよなぁ、遠くないのだけどね。

 amazonが一人勝ちする理由はべつに便利だからだけではない。どの本屋さんも店員さんがダメになったんですよ。私自身も、もはや店員さんはロボットのほうがいいと思っている。なぜなら、本好きの人がやっていないから。本屋大賞の選定をやっている人って本当に書店員なんだろうかね。きっと、物語をつくってもりあがているんだろうなぁ。




 全く関係ないが、はてなスターのことを知らないでスターを自分でつけてしまった。これは単なるボヤキなので、スターの使い方がまちがっているのはいうまでもない。

久々に芝居を観たのだが・・・


久々に見た芝居

 芝居を観た。DUOTONEというタイトルで、しずくまちなんとかいう劇団だった。家族のアルバイト仲間がでているということで見に来た。物珍しいという理由もある。

 荻窪にある小さな音楽教室の練習スペースを舞台と客席に分けての会場だった。1,2列目は座布団席のようで、体育座りにちかい姿勢を取らざるを得なく、少々太りぎみの身にはこたえるのだが仕方がない。エコノミー席であっても2時間程度ならばもつし、芝居が面白かったら気にならないだろう。何人くらい入ったのだろうか。一列に10人として6,7列あっただろうか。冷房が効いていた。すし詰め状態でも息苦しさは感じない。

 同じ劇団の別の芝居を観たことがある。ちょっと面白かった。だから今回来ているのだが。内容は短編10本から構成されていた。感想だが、ずばり脚本がビックリするくらいいけてなかった。一体、どうしたんだろう? 私は芝居については知らないし、そもそも数回しか見たことがない。ドラマも映画もほとんどみない。要するに、職業的にも興味的にも素人なのだが、それでもこの脚本はひどいと言ってみたくなる。役者さんのパフォーマンスには難を感じなかったので、彼らが悪いとは思わない。やはり脚本がわるい。つまらないのだ。もし今日の芝居の原作が短編集として刊行されている本であり、それを買って読んだとしたら、第二話あたりで腹が立ち、我慢しながら読んだとしても半分前で怒り、本を投げつけていただろう。意味がない、あるいは、構成も主張もおかしな話ばかりなのだ。

 そう思っているのは私だけなのだろうか。近くに座って観賞していた若い女性たち(というか、学生さん?)はなにやらアンケートに書き込みをしている。フリースペースにも書き込みが目立っていたので、熱心にコメントしているようである。ひょっとして、これが良かったと思っているのだろうか。「え、面白い話だった?」と聞きたいくらいである。演劇について私は知らないが、本についてはそれなりに読んだ事がある。だから、「お話」についてはいろいろ言ってもいいだろう。今日の話は全部0点だろう。普通の人ならそう思わないか?

 脚本は誰が書いているのか? そう思ってクレジットをみると、この劇団のリーダーのようだ。じゃぁ、文句はつけられん。なんども言うが、役者さんに問題があるわけではないので残念である。だって、直しようがないではないか。このような脚本が「いいもの」と思っている基準が劇団のベースにあるならば、それを気に入らないから変更しようとはならないし、そうするべきでもない。私が間違った客なのだ。世の中ひろいものである。

 役者さんに全く問題がないかといえば、そうでもない。上手なんだろうけど、セリフが「唄」に聞こえてしまうのだ。抑揚やらトーンなどは適切だから、それがあまりに「適切だから」なのかもしれないが、その場で生成された言葉に思えないのだ。「唄を歌っている」ようなのだ。曲が付いたら「オペラ」である。でも、それは演出家のOKがでているはずで、むしろ狙った効果なのかもしれない。そう思って、どんな人が演出したのかと確認したら、またもや脚本の人であった。この時点で笑ってしまった。だめだこりゃ。どうやら私はこの劇団のセンスとソリが合わないようだ。以前見た芝居は面白かったのになぁ