どうしてフィッシングメールはピンポイントなのか?


こんなタイトルのフィッシングメール
"It is the Arch of Septimus Severus, which was erected in the Roman Forum in A."

え?「フォロのAに立っているのはセプティミウス・セヴェルスの凱旋門だ」そんなタイトルのメールです。外国に友達はいないし、仕事もしていない。だからタイトルが英語のメールは全部フィッシングか広告です。でも、私はローマファンだということを調査してこのメールを送っているのでしょうか? そもそも、セヴェルス自体がマイナーですから、ローマ通の人からのメールなのか? とても不特定多数の人に向けてのメールではない。この表題で中身をみるような人がどれくらいいるのか。

 以前、Flickrにティトスの凱旋門の写真を載せました。これです。

Arco di Tito

 まさか私のFlickrの写真を見て、間違っているという指摘をしてくれたのか? 一瞬そう思いましたが、ありえないです。なぜなら、セヴェルスの凱旋門はこれだからです。

The Arch of Septimus Severus

 やはり、このフィッシィングメールのタイトルはいい加減に設定されたことになります。そう考えると、おそらくはヨーロッパ向けのフィッシィングって、歴史を知っている人向けということになります。進んでいるのか、いないのか。


そういえばこの本

思い出すよすが
塩野七生『ローマ人の物語』スペシャル・ガイドブック
この本についての個人的なメモ。 http://www.significa.jp/scienza/books/2007/05/post_349.html

 このシリーズを全部読んだ人向けで、読んだ思い出にふける本のようなものです。ロングインタビューには「今年は読者と対話する」という発言がありました。そうなんだ、と思っていたところ朝の政治番組に塩野さんは出演されていたので、驚きました。今、日本に滞在しているのか、と。どうやら対話する、という発言はホントのようです。ただし、番組そのものは読者ではない司会者が段取り通りすすめようとしているのでダメなものでした。塩野さんはゆっくり考えて話すので、長い沈黙があったりしますが、それでも塩野さんの肉声で語られる話を聞くのは読者ならば貴重な体験なので焦らないで放送してほしい。それができないならば、やらないでいいと思うのです。ゆっくりやれる人と番組つくってくれればいい。

 金曜日にへんなフィッシングメールを受け取り、土曜日のこの本を見つけ、日曜日に番組を見た(HDビデオのキーワード登録で録画された)。なんだか、今年はもうちょっとローマを考える機会に恵まれそうです。

最後は物語が上手かどうか


物語って聞くものだと思っていたが
 物語として語るには、ウソでもいいから面白くという意味がある。ちょっといんちき臭い感じ。しかし、小説でも映画でも、事実ばっかりだったら面白くも何ともない。だから物語は事実をストレートに伝えることが善だと考える上では必要悪というになる。ちょっとオーバーな話だったり、話がうますぎたり、そんな物語の登場人物のようないい人いないぞ、とか現実にはあり得ないだろうことを語って喜んでもらう芸能の一つとなると、それができるのは「芸能人」ということであって、市井の人はあまり関係がない。そう考えるのは普通のことでしょう。

 興味をもって人に話を聞いてもらうためには、なんだかんだいっても「物語」でないとダメなのではないか。いか、物語のほうが特だろう。面白ければ聞く人が「聞いている」ことが明らかな状態で話せるし、話した内容は覚えてもらえるし。人がそういう性質もっているのならば、それに合わせないと「現実問題、ダメでしょう」となる。ならば、話すこと全てを物語にしていけないか。ということがこの本に書いてある。

ビジネス詩集である。
プロフェッショナル進化論 「個人シンクタンク」の時代が始まる (PHPビジネス新書)
この本についての個人的なメモ。 http://www.significa.jp/scienza/books/2007/05/post_348.html

 例えば物語る能力とはこんなときにでてくる。キーワードを探して、そこから一つの話を創造する。例えば、ブログ、団塊世代、起業、といった言葉が目に入ると「そういう世代の人が自分のノウハウをブログをもとに構成して、起業をするのか?」とか「起業を考えている人がブログをいろいろ見ていたら、団塊世代をターゲットにしたものを思いついた」とか、いろいろ創造できるのだが、それを映画のように話すことができれば、単に「論理思考」で説明を押し通すよりいいですよね。なるほど。

 そうは言っても、この能力、どうやって身に付けるのか。作家になれるとは思っていなかった人ならば、今からやれと言われても難しいだろう。素人は素人なりに始めても、成長が遅いです。とくに30過ぎると。30代後半で写真を趣味として初め、われながらちょっとよいと思われる写真をとったとしましょう。例えば、これ。

Pelargonium

 でも、ぜんぜんダメなんですよね。他の上手な人と比べると。おそらく、文章でも同じでしょう。社会人になってずっとすきで物語を書いていてあるときデビューした人はたまにいます。それがびっくりするくらい面白い人もいます。例えばこれ。

キャラたちまくりである。
チーム・バチスタの栄光
この本についての個人的なメモ。 http://www.significa.jp/scienza/books/2007/04/post_337.html

 へぇ、結構できるもんなんだという意見も、例外でしょうこれという意見もあります。でも、普通に考えれば若い頃からずっとやっている人のレベルに達するのは天才でもないかぎり同じくらい時間と集中力をかけないとダメでしょう。歳を取るうちに身に付けた経験なんて、そうそう意味のあるものにはなりません、多分ですけど。

 で、落とし所が必要になります。結論ですが、「そうは言ってもやりゃいいじゃん。誰の人生でもないんだから」。パスカルの賭けに似てきます。神がいるかいないかわからないが、いなければそれでいいけどいたら死後損する。だったら、神はいると信じようというもの(この理解は正しくはないそうですが)です。人間弱いです。「ひょっとしたら」という魔力。宝くじと同じ。競馬と同じ。パチンコと同じ。買わなきゃやらなきゃ、絶対に当たりません。でも、やっても無駄なんです。それでも、やってしまう。上達しないと知っていても、わずかに成功した例が自分にも振りかかると信じてやるんですね。私は普通の人です。私もやってしまいます。であれば、ほとんどの人はそうする。

 人に話をするとき、面白いように話す。でも、ウソはつかない。それで訓練する。これ以外によい手ってあるのだろうか。

結論、持っていますか?


自分の行動を書くな
 なぜ、普通の人のブログはつまらないのか。その理由は書く事柄無いのに書くという行為をしているから。実は、そんな程度の問題なのではないか。文章読本を読んでも、上手なブログの書きかたを読んでも、ましてやビジネスライティングや表現訓練を読んでも、決して面白い文章を書けるようにはならない。そんなことをこの本を読んでいて気がついた。
<不良>のための文章術 (NHKブックス)
 この本についての個人的なメモ。 http://www.significa.jp/scienza/books/2007/05/post_344.html

 ついつい自分のことについて書いてしまう。その動機は2通り考えられる。

(1) それしか書けることがないから。
(2) 自分について知ってもらいたいから。

 何かを書いてみようとう衝動を消化するためにブログを始めるとすぐにネタがなくなってしまい、しかたなく自分の行動をトレースすることで浮かんでくる内容をかいてしまう。だからブログは「〜の日記」というタイトルが多い。このブログもそうだ。小話一つでも書ければいいのだが、いつもそんなことを考えていることもできないので結局日々の行動をつらつらと面白おかしくなるように書いてしまうというクセがついてしまう。こういう事をつづけていると、いつもまにやら自分のことを書いてしまう。「最近〜がマイブーム」とか「〜に行って戻ってきた。そのことについて」とか。ネタがないからという理由の埋め草だったが、無意思下において「他人の視点からこう認識されたいという自分像」を表現してしまう。こうなると、ダメな理由が(1)と(2)とそろっているので良くなる見込みはない。いくら継続しても、他人からみて面白いものが書ける可能性はあまりないだろう。

 文章を読む行為は、読む人の考える行為を強制的に操作することである。自分が考えているわけではないのに、頭に他人の価値観が飛び込んでくるから恐ろしい。読んでいると気持ち悪くなったり、恥ずかしくなったり、腹が立ったりする。これが、自分を含めて素人が書く文章の欠点である。

 では、どうすればいいのか。さしあたって、自分の行為は書かないことであろう。そして、なるべく文章を読むことが「価値観と関係なく自然に体験した事実」というようなものにすること。感情を押し付けるのではなく、感情が発生した状況を淡々と語ればいい。何かを実体験するときに演出はない(音楽とか形容詞などの修飾)。それなのに、自分はなんらかの感情をもったのだから、他人もその環境に置けばなにかを感じるであろう。そして、それが一般的なことならば読んだ人はあなたと同じようなものを追体験するだろう。文章を論理的に構成し批評を加えれば、それはエッセイになる。

 あくまでもこれは仮説である。今後はこの仮説にそってみる。「今日は晴れた、だから皇居の芝生にねっ転がっていた」というような日記は、有名人ににでもなったとき以後にとっておくか。

下手くそな文章の改善方法

vietatofumare2007-05-02


 そんな物があればいいなと誰でも思っているでしょう。結構練習しても対して上達しないものです、文章って。プロの人から言わせれば、それは当たり前だし、才能だしというところでしょう。文章の善し悪しは、現代アートとちがって普通の人にも分かります。競走や美人コンテストのようなものだから、「ダメだなぁ、おれ」と書いた本人がすぐ認識できるから、異常なものは滅多にお目にかかれない。まぁまぁダメ、というものがほとんどでしょう。

 うまい下手は年齢にもあまり関係がない。若い人でも読みやすく、面白いものを書く人がたくさんいます。なぜなのか、と疑問におもいませんか? 小学校から同じような教育だったに。先生の善し悪しや育った環境の違いのせいよりも、本人の好き嫌いの因子の方が大きいのでしょうか。わかりません。

 数年前に「これじゃだめだ、ブログでも書くことで練習量を増やすか」と一念発起したのですが、対して効果が上がっているように思えません。
http://www.significa.jp/scienza/books/

誤字脱字に無関心になってしまった分、逆効果だったかもしれません。本を読んで感想をメモるという単純な作業の回数を重ねれば、いつしか量から質へと転化するはずだったのですが、どうやら別の方法をとる必要があるようです。

 道具にいろいろ凝ったのですが、あまり関係しない。本も沢山読んでいますが(通常の人よりは絶対に多いはず)、これも読まないよりマシという程度。上手なブログを書く人は沢山いますが、みんな才能がある人ばかりなんでしょうね。

ギルフォードの風景

vietatofumare2007-03-18


 丘の上にあるコインランドリーに行った。その時に撮影したギルフォードの街。むこうの緑の上にカテドラルがある。その右には、ちょっと判断つからないだろうけどサレー大学の一部の施設がある。手間から街が広がっている。新規の建物も結構あるのだけど、3階建て程度のレンガのファサードをもつ商業施設は古くからの家を改造して使っているので、街の雰囲気は古くからの佇まいを残している。この日は晴れたり、雪(雹)が降ったりと忙しい天気で、気温も大分低かった。今週の予報は寒いそうで、もう春が来たと思っていたのにがっかりしている。

 3ヶ月近くいてもうすぐ帰るのだけど、あまり感慨深いものを感じないのはなぜだろうかと考える。人やお店で「悪い」印象はない。ダメだなぁと思うことはたたあっても、腹が立つことはなかった。ただ一つ言えることは「天候が悪い日が多かった」ということくらい。しかし、実は街の印象を決めるのはそれなのかもしれない。今日も街を歩いていて日が差したり曇ったりだったが、空があかるくて日光が照りつけて建物や道が反射で光っているようなときは「言い町だよなぁ」と感じていた。しかし曇ると「早く東京の家に戻りたいなぁ」とも思った。自分の感情なので観察可能だからはっきりいえるのだが、明らかに「天候」あるいは「明るさ」が街の評価に影響している。イギリスの春、夏、秋においてはあまり天気が悪い日がつづくという印象はないそうだから、単に私が来た時期がわるいだけなのだが、それがイギリスの印象を決めてしまうというのは確かだ。

 短いような長いような滞在だったけど、まぁ、そんなに悪い気はしなかった。一つ分かったことは、毎日ブログをつけるのは結構きびしいとうことかな。

 http://www.significa.jp/scienza/travel/guildford/

部屋の移動

vietatofumare2007-03-17


 イギリスに来て2月半になる。その間ずっと同じ部屋に済んでいた。一泊朝食付きで60ポンド(長期滞在ということで、ちょっと安くしてもらった)。なんだか物音がうるさい部屋だった。厨房の上に位置するため、食事を作り始める時間になると換気扇の音がずーっと響いている。そして、夜遅くなるとその音が鳴り止む。すると、ふっと静かになる。その瞬間はわりと好きであったが。しかし、通りとは反対側のさえない風景の窓。隣のピザレストランででてきたワインの空き瓶を係員がごみ箱にぶちまけるときの壮大なガラスの割れる音はいつもびっくりした。それでも体調は崩さないでやってこれたのだからそんなに悪い部屋ではなかったわけだ。住めば都かといわれれば、ちょっと違う。決してそこにいるとくつろげるというわけでは無かったから。

 今日からは通り沿いの2階の部屋。窓がデカイのでカーテンを明けるとずいぶんと明るいのだが通り沿いの人からも丸見え状態のような気がする。実際問題外からのぞき込む人はいないのだが。バスは綺麗に直してある。不満なところはオイルヒーターが前の部屋の半分の大きさなこと。別に寒くはないのだけど、これだと洗濯の効率がわるい。というか、もうできない。ヒータにシャツやパンツをぶらせておけば2時間くらいで乾いていたためコインランドリーには行かないで住んでいた。しかし、さすがにコインランドリーに行かないとまずい。幸い、下着類は部屋に干しておけば1日あれば乾くので、乾きづらいGパンや綿のシャツなどだけで、残りの期日を考慮しても2回行けば十分であろう。それと通り沿いの車の音が結構うるさい。夜になってもシーンとすることがなくなった。通り沿いの部屋のほうがいい部屋なのだろうと思っていたのだが、そうではないようだ。

g_mean

vietatofumare2007-03-16


 小さいことから聞いていた場所に訪れた。グリニッジ天文台である。基準となる子午線が通っている場所に立ってみた。右足が東経、左足が西経にある。当然実感はない。地球の他の場所とそんなに大きく変わるところはないのだが。

 こういう基準を持っているところが過去のイギリスの偉いところ。大英博物館に行ってもイギリスの物品はほとんどないのだが、彼らは「発明品を収集し、体系付け、基準を打ち立てる」というメタなことをやっていた。今風に言えばシステム・エンジニアといったところ。あるいは、そもそもそういうことを仕様という企画を作った人たちということになる。ダーウィンニュートンはイギリス人。個人的にも彼らはスゴイと思うけど、それを可能にしたのはイギリス人がその時代にやっていた良い面の具体例といえる。

 そういう感慨に浸った後、早速土産コーナーに立ち寄った。時計にまつわる小物が並んでいる中、イギリスに来てからずっと探していたものを見つけた。それは、大航海時代に船乗りが使っていたという携帯用日時計。いんちきな作りだったら買わないのだが、きっちした精巧な作り。早速購入。25ポンドもするが、それは構わない。大英博物館の土産コーナーにあると思っていたが全く見つからなくて残念に思っていたが、こんなところで会えるとは。