おしゃべり

vietatofumare2007-02-10


 ヨハネだったか「初めに言葉があった」という書き出しがあったと思う。イギリスにきて言葉というものを今まで以上に意識するようになった。もちろん、英語がわからんから生活のあらゆるシーンで「言葉」を意識的に考えることが直接の原因だけ。彼らの挙動を見ていると日本での生活でみられなかったくらい「話す」ようだ。「あ・うん」に頼っている日本人でのコミュニケーションという表現を実感する。他人と自分とが「明確に」違う人であるということを意識しないで済む世界というのは、小さい部族なら他ならず一国としては珍しいような気がする。それも、地理的環境と歴史的偶然化での人と人のコミュニケーションの一最適解ということなのだ。

 できれば話さなくても済む生活が望ましいと思っているような気がする。相手が自分のことを分かってくれていて、自分も相手を分かっていれば会話が必要なかったりする。生活がパターンかされ、何かを黙々と行う生活が支配する世の中ならばそれが可能であろう。江戸時代。この時期に繰り返しの中での生活というものが根付いたのかもしれない、日本に。自分の仕事は親の仕事を継ぐだけの世界ならば「人生って何?」とか「僕は何をしているのだろうか? 何をしたいのだろうか?」などという哲学的テーマにぶち当たることはない。誰かと答えのないテーマについて議論する必要などない。さっさと自分の仕事をすればいいだけだ。

 なぜ、言葉を多用しなければならないのか。哲学の祖であるギリシャ人にでも聞いてみないとなぁ。同じ考え方をしない人を相手に話をする場合、論理が必要になる。論理というのはスゴイ発明だ。おそらく脳の機能であろうからギリシャ人が発明したわけではないのだが、彼らがそれを意識的に系統だてて残してくれている。途中、アラビアの人が歴史のなかでうもれないのように残してくれたおかげで、いまでもアリストテレスさんの恩恵を受けられる。 古代ローマでもルネッサンスでも啓蒙時代でもギリシャ人は先生だったようである。それにしても、いろんな人ばかりというわけでもなさそうな古代ギリシャでなぜ論理などが構築されたのだろうか? 住み心地よさそうな気がするが、結構変な人がおおかったのだろうか。

 なんてことを考えながらこの坪絵をみる。井戸端会議も論理合戦だったんですかね。そんな事はないとは思うけど。それにしても、アンフォラを器用に頭に乗せている。これって、なれれば楽なのだろうか?