ナショナル・ギャラリーで気がついた

vietatofumare2007-02-11


 ロンドンに行ったとっきには必ずナショナル・ギャラリーに立ち寄る。只だからということもあるし、ウォータールー駅へ戻るときに通過するということも理由なのだが、絵が見たいなぁという気分に何故かなるから。美術が好きなんて面と向かって人に言えるほどでもないし、勉強したこともないのだけれど。都心に引っ越してきて、休日はなぜかのんぴりする時間が増えたことがきっかけだったのか、塩野七生ルネッサンスシリーズを読んでフィレンツェに行ったことが理由か、テレビ東京の「美の巨人たち」という番組を毎週見るようになったことが原因なのかははっきりしないのだが、ともかく普通の人よりは絵が好きになっていることは確かである。

 最近はどういう風にして絵を見るのかといえば、茂木健一郎さんのエッセイに書いてあった方法を採用している。それは、一枚の絵をずっと見るのである。彼によれば一時間くらい見ていると脳の状態が自然と変わっていき、能書き抜きで「感覚」として絵の良さを取りこめるようになるというようなことだった(うる覚え)。有名な絵の展覧会のときには、目玉となっている絵だけを1時間くらい見るということである。この方法は効果がある。私はいろいろ実験してみたのだが、20分くらい見続けられる絵はその人にとっての名画であるし、また、見ていると作者が書きたかったのはこの感覚なんだろうなというものが想像できたりするのである。1,2分では絵を見る意味がない、とも思う。もちろん、絵を見ているときに小林薫さんのナレーションがあればいいのになぁと思うこともあるが、それがなくても良い絵は良いです。絵を眺める良さに気付くのに4,5年はかかったのかもしれない。

 ロンドンの中心、トラファルガー広場にあるナショナル・ギャラリーはスゴイところである。まだあんのかよ、というくらい絵がある。それも、いいものを沢山もっている。部屋は広いし、そんなに込んでいないし、ゆっくり座って見れる椅子が備えてあるので絵を見るには持って来いの場所である。何度か通っているとどの絵がどこにあるのか体で覚えてくる。この部屋の隣のこの辺。そんな覚え方である。ここは宗教画に由来する古いものだけではなく、風景画や人物画などを作者、時代、地方によって分類されいて置かれている。「あぁ、この絵は美の巨人でやっていたなぁ」「この絵、ここにあったのか」の連続である。気に入った絵を「見る」と決めたら、その場所にずっといる。もう、いいやと思うくらい見続ける。茂木さんの方法の実践である。疲れる。椅子に座っても見る。方向を変えてみる。何を書きたかったのか、どんな感情を表現したかったのかを想像する。なぜ、この絵がいいのかを考える。自分が書くとしたらどうするか、どこが作者の天才たる所以なのかを感がある。などなど。考えを巡らせる絵であればあるほど、時間がたっていく。そして、別のことをしているときに絵がふっと頭に浮かび「また、見に行こう」と思う。ナショナル・ギャラリーはそのようにして使っている。

 大抵の人、とくにアジア(日本、韓国、中国)からの旅行者は忙しいのでそんな見方をしない。見ていないといっていい。写真もとれないし、うろうろしているだけのようでかわいそうである。「綺麗」とは口にしているが、ウソだろう。多分、この人は絵を好きになることなしに終わるのだろうなぁと思ったりする。一方で、西洋人、とくに、老人はゆっくり見ている。日程が緩くできているから、老人だからということもあるが、しっかり絵をみている。そうだよな。そもそも、1時間くらいで全部ゆっくり見ることなど不可能なのだから、一つだけでも見ていけばいいのに。ツアー・コンダクターの人がアドバイスしてあればいいのにと思うのだが、ツアコンの人も絵を楽しむ人ではないのだろう。不幸の連鎖である。

 では、自分は自分は絵についてのなんらかの能力があるのかといわれれば、ちょっとあるといえる。そういう体験を最近した。いやはや、お恥ずかしいのだが、ダ・ビンチの「岩窟の聖母」を見ていてあることに気がついたのだ。初めこの絵を見ているとき、本で見たことある絵だなぁと思っていた程度なのだが、例によって20分以上みていたらあることに気がついた。おかしい、これ、変だぞ。そう思ったのだ。頭のなかにフィレンツェでみた「受胎告知」がよぎる。一端気がつくとさらに気になる。最終的に絵の説明書きを見てなっとくした。なるほど。おれの目も物が見えるようになったじゃないか。そんな自信を持った。さて、何がおかしいと思ったのでしょうか。TVや本やWEBでは分からんかもしれないので、ロンドンに来たときに確かめてください。