もういいや、という気分。

vietatofumare2007-03-07


 湯あたりという言葉がある。温泉に長く入ってのぼせてしまい、部屋にもどって倒れているというような状態。物には限度があるということで、過ぎたるは及ばざるがごとしに通じる。通勤時につくづく思うのだが、わたしゃ「外人にあったった」ような感じがしている。もういい、という気分である。まぁ、自分が外人なんだけど。

 すれ違う人が全部外人。初めは「非日常性」を楽しんでいた。すげー、おれこんな世界で歩いているよ。そういうワクワク感である。看板は全部英語だし、アナウンスは明瞭な英語だから面白かった。もちろん、自由に話すことはできないけれど、イタリアとは違って英語だもんな。看板やアナウンス程度ならば問題はない。

 2ヶ月すぎくらいから、なんだか面倒に感じてきた。というのは、ここに日常を感じるようになったからだろう。「非」日常ではなくなってしまった。魔法が消えた、という感じである。だからといって、人の話が全部分かるわけではないし、ホテルの人にクレジットカードの締め日の説明をなんなく説明できるわけでもない。つまり、面白さが消えて面倒くささだけが残ってしまったのだ。海外旅行ならば、言葉や習慣が分からない不便さはワクワク感が緩和してくれる。留学も初めはそうなんだろう。私の出張体験もそうみたい。面倒くささだけが残ってしまったようだ。

 となると、気楽に過ごせる日本のがいいなぁという気分になる。日本橋丸善も3月には出来るそうだから早く行って見たいし。しかし、もどったらもどったで、「なんであのチャンスをもっと有効に利用しなかったのか」という後悔をすることになるのはほぼ確実なのだが。なとなく、若い頃の過ごし方のような気分である。

 ドキドキ感が消えて良かったこともある。少なくとも、「あたる」くらい外人さんに囲まれていたので話しかけられてもびびらなくなった。必要なら、英語で聞くくらいのことはなんとも思わなくなった。要するに慣れた。これは、日本で英会話スクールに通っていても、CSでBBC/WORLDを見ていても決して身に付かんことだろう。外人さんという存在に慣れるには、自分が外人さんになるよりない。そういうことだ。全く当たり前のことを知った。

 しばらく前に意識して始めた「人の口ではなく、顔をみる」という訓練の効果が現れてきた。今はぼんやりテレビを見ていても日本にいたときと同じように顔全体に目がいっている。話す口を凝視する、ということはしなくなった。なので現在の英語聞き取り訓練は「何か別のことをしながらTVをつけているときに、その内容が頭に自然に入ってくるか」というものである。これは意外に訓練になるような気がしている。無意識に英語を処理する訓練だと思って始めたのだが。これは日本に帰ってもiPodで続けられるな。