読書メモを整理してみたが

vietatofumare2006-08-26


 読書メモをつけている。読んだ本の感想文というか、単なるメモというか、読んだという事実を記録することが目的のもの。読書メモはWWWを立ち上げたと最初にコンテンツとして多くの人がつくるそうである。私もそう。この読書メモもそういうたぐいのものである。それがずいぶんとたまった。うっかり読書メモのフォーマットを変更しようものなら、過去の記録に遡っていくため手に負えなくなる。ならば、昔のものは捨ててしまうか、無理に変更しなければよい。そうは言ってもせっかく書いたのだから、まぁ、できれば情報は多いほうがよいし、ついつい全部変換してしまう。時間ばかりが食ってしまう。


 そもそも、「一日一冊読めるのか?」という疑問をあるとき抱き、実際に挑戦するという遊び心から始めたことなのだが、やっていくうちに1冊を読破することが自己目的化してしまった感がある。もちろん、1日1冊は読めないのだが、読めないなりに努力してしまうのだ。それに、しばらく読めない日が続くと憂鬱になったりする。要するに、本末転倒状態になってしまったのだ。それで読書メモを数えてみたら2年間で400冊、年間200冊というペースであった。365冊までは達しないことがはっきりしたが、まぁ、自分なりに良くがんばった。


 そんななか、最近読んだ本で耳が痛かったモノがある。「本の冊数自慢には意味がない。持てあましている知識は脂肪にすぎない。」ということが書かれていたのだ。

本の読み方 スロー・リーディングの実践 (PHP新書)
 もちろん私も読書に「質」を求めたい。しかし、「質は量からしか転化しない」という信条も一方では持っているため、まずは量を読む必要があるだろうと信じている。そのために早く読みたい。ある程度の量をこなした後で質に転化させていけばよい。その意味で、本の冊数を気にすることは、成長のある段階ではしかたない。そう思っている。


 もちろん、昔の偉い人は多読なはずない。出版状況が良くなかった。なにせ本がなかったのだ。ならば量から質は絶対に必要ではないだろう。そういう主張は依然成立することは知っている。


 なお、上記の本のメモは次の通り。
http://www.significa.jp/scienza/books/2006/08/post_232.html


 無駄かもしれない読書メモだが、何もしないよりマシである。何かのためになる、というよりも書いている瞬間が充実すればよいではないか。この評論の人たちのように小説を「深く」読めることは、土台できゃしないのだ。ダメなメモでも、言葉にすると「何もわかってねぇな」ということがわかる。それでもいいではないか。

文学賞メッタ斬り!リターンズ
http://www.significa.jp/scienza/books/2006/08/post_260.html