若冲の独創

vietatofumare2006-08-19


 国立博物館で開催されている「若冲と江戸絵画展」を見てきた。先日「美の巨人たち」というTV番組で紹介されていた「鳥獣花木図屏風」が目当て。それと同時に、本館に「納涼図屏風」も見たい。この展示が8/20まで。ちょうどよいので暑いけれど上野公園へ久しぶりに行った。入場はスムーズであった。若冲のコーナーは混雑していたが、最前列で蛇行しながら間近で見たい人の列から一歩離れればなんとか見れる程度の込み具合。押し合いへし合い、ということはなかった。


 江戸絵画という題名で想起しがちは絵がたくさんある中、「鳥獣花木図屏風」は異常。誰かがタイムスリップして若冲に100年後の絵を見せたんじゃないか?そう思えるほど絵が異質。笑ってしまう程である。こういうものを独創と呼ぶのだろう。この絵は綺麗だとか悪い絵だとか、そういう評価が可能な空間の外にある。そんなものが独創なのだろう。独走という字をあててもよい。もっといえば、独創的というのは、決して良い評価を得られるはずはないかもしれない。養老孟司さんが「独創的なものは周囲に理解されない。真に独創的なものは、おそらく排除される。精神病院に行ってみなさい、独創的な人が大勢いらっしゃいますよ。」そのような趣旨の文章を読んだことがある。若冲という人、私はTV番組で紹介された程度しか知らないけれど、さすがにこの絵は評価されなかったのだろうと思う。だから、海外の人の目に留まって流出してしまった絵なのだが。それにしても、色合いもタイル状の感じも絵の大きさも、良いものです。混雑していたら、この絵と「照明いろいろ換えて屏風の絵を観賞する」コーナーを見れば十分です。全部見ようとして、体力や心の静寂を失って絵をみても、何もならないです。


 独創的であれ。そういう人にその時代からかけ離れた独創は理解できんだろう。芸術でも科学でも工学でも評価されたいならば、プチ独創である必要がある。なんとも皮肉なことであるが、人間の社会はそうなっているようです。



守景の想像
 納涼図屏風という絵を見ました。これも「美の巨人たち」で以前紹介されていました。とても不思議な絵です。いってみれば貧相。家族が夕涼みをしている。月がでている。それだけです。それでも見入ってしまうのはなぜでしょうか。絵の前で嫁さんとあーだこーだ話したのですが、「要するに、この絵を見ていると、この自分物に知らず知らずになってしまい、虫の音や風、月と雲、そういう世界に入ってしまう」からだ。そういう結論になりました。


 つまり、絵が「きっかけ」でしない。この絵がなぜ素晴らしいかといえば、絵そのもの評価(綺麗さ、技巧、構図など)は低いが、その絵が人間の想像のスイッチを入れるからである。そういう素人解釈になります。絵は綺麗なものだと考えている人には、全く価値のないものでしょう。想像のスイッチが入らない限り、薄汚れたふすまみたいなものでしょう。私の前を何人もの海外から来られた旅行者が全く興味を示さずに通りすぎました。


 この絵を「国宝」に認定した人たちはすごい。偉いとしか言いようがない。



ルーブル展は長蛇の列
 ついでだからルーブル展も見ようと思い会場まで行ったのだが、入り口前で長蛇の列を見た。最後尾からだと70分待ち。この暑さで70分とは、ディズニーランドじゃないのだから、と思いやめた。6月末にローマへ行ったので彫刻には食傷気味。こんど見たくなったらルーブルまで行くか。そう決心して帰宅した。